1日3食は穀物食(糖質食)と深い関係性

ヨーロッパは1日2食

私たちは1 日に3回食事をしています。そんなのあたりまえだろうと思われるかもしれないのですが、じつは日本人が1日に3食を食べるようになったのは、比較的最近のことなのです。そしてこの1日3食という食習慣もまた、穀物食(糖質食)と深い関係にあるのです。

ヨーロッパでは、食事は1日2食が普通でした(古代エジプトと古代ギリシャは例外的に3食だった)。中世ヨーロッパでは、正午と夕方の2回食べていたのですが、15世紀になって初めて、この2食(昼食と夕食)に朝食が加わる形で3食が始まり、新しい習慣として次第に広まりましたた。ちなみに、19世紀ごろまでは、もっとも重要な食事は昼食であり、「ディナー」は本来は昼食のことでした。

一方、我が国では、鎌倉時代までは武士も農民も、朝食と夕食の2食が普通でした(朝廷のみ例外的に3食)。鎌倉時代以降、徐々に1日3 食が根付いていくのですが、日本の庶民が3食とるようになったのは、江戸時代の明暦の大火(1657年1月18日〜19日)がきっかけでした。

明暦の大火は、江戸城外堀以内のほぼ全域と、多数の大名屋敷、そして市街地の大半を焼失し、死者は3万人とも10万人ともいわれています、日本史上最悪の大火災だったのです。

そこで幕府は、焼け野原と化した江戸を復興するために、全国から大工や職人を集め、彼らに朝から夕方まで働かせました。しかし、1日中働くためには、朝食と夕食のみでは体力が持たず、昼にも食事を提供するようになって、1 日3食の習慣が広まったのがはじまりでした。

ちなみに、ヨーロッパでは昼食がもっとも重要でしたが、日本では昼食は軽くすませるのが一般的です。そのルーツは江戸時代の明暦の大火だったといえるかもしれません。

では、江戸に集められた職人たちは何を食べていたのでしょうか。江戸時代の日本人の8割強は農民でしたが、彼らにとって米は、お上に納めるべき年貢であり、自分たちが食べるための食料ではありませんでした。

じっさい、長野県の下伊那地方の旗本が、その地域の農民の日常の食事について詳しく書き記しているのですが(「旗本近藤氏知行所村々書上」、文政13年=183 0年)、朝食は大麦香煎か蕎麦焼餅、昼食は米3分と大根と粟の雑炊、夕食は大根つみ入れか雑炊のみとなっていて、食材に占める米の割合は極めて小さかったことがわかります。

一方、幕府は年貢として納められた米を、石高に応じて武士階級に配分したのですが、武士たちは家族で食べる分以外の米を市場で売って現金に替えました。当時は貨幣経済が普及しつつあり、年貢米を主たる収入源とする藩の経営は次第に苦しくなり、武士といえども現金なしには生活できなくなってきたからです。

このため、江戸や大坂の市中には米が豊富に出回っていて、江戸や大坂では、毎日、米のはがま飯を食べる習慣が広まってきました。このことは、この時代に鉄製の羽釜(= 炊飯専用の調理道具)が江戸や大坂の庶民の間でヒット商品になったという記録が残されています。

このような事実から、江戸に集められた職人や大工の食事は、米がメインだったはずですし、短時間で腹ごしらえができる米の飯は、職人を働かせる側からしても好都合だったはずです。

た、江戸は極端に独身男性の多い人工都市でした。彼らの腹を満たすために、寿司や蕎麦や天ぶらなどのさまざまなファストフードが考案され、外食が発達した社会でもありました。。この際、塩気のあるおかずさえあれば腹一杯食べられる米や麺類は、食事を提供する側にとっても使い勝手のいい食材だったはずです。

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