食を楽しみと考える

動物の中では人間だけ

生きるための食

本来「食べる」とはどういう行為でしょうか。

ちろん、食べることは生命維持に絶対必要な行為であり、その意味では排泄や睡眠と同じで、生命体にとってもっとも根源的な行為といえるでしょう。

おそらく動物にとって、食とは「楽しみ」とは無縁のものではないかと思われます。草食動物が革を食べるのは、楽しいからでも革の食味を楽しんでいるからでもないだろうし、ライオンが獲物を楽しみながら食べているわけでもないはずです。

これはトンボを捕まえて食べるカマキリや、稲の葉を食べるイナゴ、クヌギの樹液を吸うカブトムシでも同様でしょう。排泄や睡眠が楽しみではないのと同様、食も本来は「楽しみ」とは無縁なもののはずです。

人類もおそらく、本来はそうだったはずです。縄文人も弥生人も生きるために食べていて、楽しみとして食べていたわけではなかったはずです。あの華麗な王朝文化を築いた平安貴族にしても、食材のほとんどは生か干物の魚介類・鳥肉などの動物性タンパク質で、植物性のものは唐菓子と木の実のみであり、味付けという料理技法も概念もなかったのです(ちなみに加熱した食べ物が普通に食べられるようになるのは室町時代以降)。

つまり、藤原道長にしても嵯峨天皇にしても紫式部にしても、食事は単なる食事であり、「夕食を楽しみに待つ」という感覚は持っていなかったか、あったとしても極めて希薄だったのです。そしてこれは、19世紀初頭のヨーロッパの農民も、同時代の日本の農民も同じで、「空腹だから食べる」という感覚でしょう。

では、いつから人間にとって、食が「楽しみ」になったのでしょうか。契機はおそらく2つ。1つめは、コムギや米といった、デンプンを大量に含んで味もよい穀物が大量に栽培されてふんだんに手に入るようになったこと、そしてもう1つは、カリブ海でのサトウキビの大規模プランテーションにより、安価な砂糖が庶民でも入手できるようになったことでしょう。ようするに、食事を「喜び」に変えたのは、穀物と砂糖なのです。

だが、生物・動物としてみると、「楽しみとしての食事」は、明らかに「食」という行為の本質から逸脱しているのです。食は排泄や睡眠と同列の、生命維持に最低限必要な基本的行為である以上、「食べることが楽しみで生きている」というのは、「排泄が楽しみで生きている」、あるいは「人生の一番の楽しみは眠ること」と言っているようなものです。

食事が快楽でない場合、食べる量を決めるのは胃袋の容量であり、容量以上に際限なく食べることは不可能です。しかし、食事が快楽になると、食欲には歯止めがかからなくなります。食べることが喜びなら、それを途中で止めるには、非常に強い意志の力が必要となります。

だから往々にして人は、必要以上の量を食べ、限界を超えてもなお食べ続けようとする。糖質過剰摂取による肥満の根本的な原因は、おそらくこれに違いありません。

このように考えると、大盛りやお代わり自由という健咳を競う?食事のほとんどが、穀物主体である理由が見えてきます。カレーの大盛り、ラーメンの大盛り、メガ盛り海鮮井、わんこそば、ケーキ食べ放題、ハンバーガー大食い選手権など、いずれもコムギや米などの穀物のオンパレードなのです。

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